こんにちは、田舎物書き、きーたんです。
忠犬ハチ公と言われて連想するのは、殆どの方は渋谷駅前でお座りしている銅像だと思います。
しかし、ハチ公の銅像は北東北の秋田県、大館市の大館駅にも設置されているんですよ。
今回はどうして銅像が大館市にもあるのか、ハチ公のこと、秋田犬の特徴について記述してみたいと思います。
秋田県大館市、JR大館駅前にハチ公は居ます

普段は非常に閑静な場所で、銅像だけを見に来るならすぐに見られる場所です。
反対に、銅像を目当てにすると非常に目立ってしまうのですが、渋谷駅前と違って誰にでも見つけられます。
私自身、所用があって渋谷駅に行った時は探す余裕が無く、せっかく渋谷に行ったのに!となっていました。
本当に残念ですが、自由に東京に行く機会があったら探してみたいと思います。
また、大館駅の駅弁の比内地鶏の鶏めしも有名です。
駅をご利用の際は是非注文してみてくださいね☆
どうして秋田の大館にハチ公の銅像があるの?
ハチが住んでいたのは、東京なのにどうして秋田なの?と思われる方も多いでしょうが、ハチは秋田犬ですから、犬種が示す通り生まれ故郷は秋田なんです。
当時の地名は、北秋田郡二井田村となっていまして、こちらが現在の大館市です。
ここで生まれた一匹の秋田犬の子犬が貨物列車で東京に送られ、あの物語が生まれました。
大館市の銅像は、東京のハチの姿に心を打たれた人が作ったものなんですよ。
下記は駅前の銅像の碑文です。
===
雨の日も風の日も
渋谷駅頭に亡き主人上野英三郎博士を
待ち続けて十年
愛と信頼の尊きを人々の胸に彫りつけ
昭和10年(一九三五年)三月八日
その生涯を終えたハチ公は
大館市の生まれである
ハチ公に感銘を受けた木村泰治翁らは
その年この地に銅像を建立した
しかし金属回収令によって
昭和二十年(一九四五年)姿を消し
以来四十有余年を経たこの度
市内外の
ハチ公を愛し
平和を心から願う
多くの人々のちからで
ここに再びその姿を現したものである
昭和六十二年(一九八七年)十一月十四日
製作者 松田秀雄
忠犬ハチ公銅像再建の会
大正十二年十一月
大館市大子内
斉藤義一宅で
父 大子内山号
母 胡麻号
の間に生まれる
昭和十年 三月八日没
=== _原文ママ
当時は今のように高速で移動できませんでしたから、北東北の二井田村から東京渋谷への道のりはさぞ長かったものだろうと感じます。
人間でも大変な移動距離を生後間もない子犬が移動するというそれだけでも過酷なものだったに違いありません。
東京に行った時の詳しい月齢の記述はありませんが、子犬は生後2~3ヶ月ほどで出荷されていますのでしっかりと懐くように育てたければハチもこの時期に渡ったのだと思います。
皆さんが飼っているペットたちも、種類によっては大変長い道のりを経て皆さんのところにやってきたのかもしれません。
主人を待ち続けたハチの生涯
飼い主である上野英三郎教授を渋谷駅前で帰りを待ち続けたことはあまりにも有名です。
子犬の時に大館から東京の上野教授の元へ届けられ、主人と生活したのはたったの1年という短い時間でした。
教授の死後、妻の八重さんの親戚の家の呉服店を始め知人や縁のある人の家を転々とします。
教授の家で植木職人をしていた小林菊三郎の家でも大事にされていましたが、散歩の途中に渋谷に向かうなど主人に対する想いの強さをうかがわせる話が残っています。
上野教授の帰宅時間に合わせて渋谷駅前に待ち続けたこのことが語られるようになったのは随分と後のことで、帰りを待ち続けるハチの待遇は良いものではなく、通行人や焼き鳥屋のいじめなど心無い扱いを受けていたこともあります。
耳が垂れた原因は野良犬に噛まれたとのことですが、犬が主人を待つことが過酷なことだったのも伝わってきますね。
教授の帰りを待つことが世間に知られるようになったのは、当時の日本犬保存会の初代会長斉藤弘吉が新聞社にハチのことを寄稿し、これが東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、世に美談として広められます。
今までハチをいじめてきた人々がハチを大事にするようになったなど、待ち続けることがようやく支持されることになりました。
これが亡くなる2年前ということから、犬の生涯として大変長い時間を耐えたことになります。
人間の時間に直すと数十年の年月ですから、忠誠心だけでなくその強い忍耐力にも心を打たれます。
「主人が居なくなったことを自分の目で見ないことには信じられない」という気持ちだったからこそ毎日帰りを待っていたのだと思いますが、短い時間でここまで慕われた教授の人柄も大変素晴らしかったのでしょうね。
実際にはハチ一匹だけでなく、他に飼われていたジョンとエスも教授の迎えに行っていたということからハチのみならず飼っていた犬全てに慕われていたことが分かります。
渋谷の駅の近くで11歳で亡くなり、人と変わらない葬儀が行われ、遺体は剥製にされました。
現在も国立上野科学博物館に展示されており、姿を見ることが出来ます。
遺体は博物館、お墓は青山墓地、死後の扱いもなかなか複雑になっています。
秋田犬と言わず犬の世界でこれほど波乱に溢れた生涯を送ったのはハチぐらいのものでしょうね。
『銅像になっても波乱が』
今の渋谷駅前の銅像は最初に作られたものでないのも有名ですが、戦争の時代に金属提供されていて後に作り直された像です。
最初に作られた渋谷のハチ公像は終戦前日の8月14日に溶解されており、1日の時間差が悔やまれますね。
実は大館のハチ公の銅像も同じ理由で姿を消し、再建されたものです。
秋田犬は猟犬としても飼われていた
秋田犬は日本犬で、唯一の大型犬です。
現在は秋田犬と呼ばれながらも様々な血が混じっている犬も多いのですが、体重45キロほどになります。
かなりガッチリした体型で、お腹もくびれが少ないのが古い秋田犬です。
数年前には、ロシアに送られたユメちゃんのことが話題になっていましたね。
秋田の阿仁のマタギは今はマタギの代名詞のように言われますが、古い伝統的な猟を行う人達です。
「銀河-流れ星銀-」という高橋よしひろさん原作の漫画を見て頂ければ分かるのですが、銀河の飼い主になる、竹田五兵衛がこのマタギです。
マタギに同行する狩猟犬をマタギ犬と呼び、秋田や岩手では秋田犬は主人のマタギと一緒に猟に出て、主人を助け時には危険な猛獣である熊と戦いました。
秋田犬が使われたのは、大型で力もあり、よく人の言うことを理解して従う性格が大きいでしょう。
単に先に立って獲物を見つけ出したり、仕留めた獲物を運び出すだけではなく危険な役割を担う部分でも大きな熊の相手に大型の犬というのもわかります。
また、飼育しても主人以外の人間にあまり懐かないこともあるなど、ハチ公にも見られる主人への絶対の忠誠心を感じさせる部分があります。
猟犬だけでなく、闘犬にも使われていたこともあり、80年代生まれの私ですが、子供の頃には周囲の大人は近づかないように言ってきましたので、猟犬・闘犬の性格を警戒してのことでしょう。
大きな体でも巻いた尾を振って笑顔を振りまいている現在のイメージとは異なった部分も歴史では持っています。
人懐っこい犬の場合は大きな体でもピョンピョン跳ねて近づいてくる犬も居ますので育った環境によるでしょうが、大きな体と同様に大きな前脚でじゃれつかれるのはなかなか強烈です。
反対に、主人以外に懐かない犬というのも徹底していて、近づいていくとそっぽを向くというのも珍しくありません。
こういう犬の時はそれだけ飼い主さんに忠実なのだと考えて良いと思います。
しつこく話しかけたりせずに、そっとその場を離れるようにしましょう。
最後に
以上が、私が知っている秋田犬についてのことです。
人が大好きで、何をされてもやり返したりせず主人に対して何よりも敬意を持って接していた性格がこうして秋田犬の特徴を振り返ってみると見えてくる気がします。
ハチ公は呉服店に引き取られた時は、あまりの人懐っこさで仕事にならず、教授の帰りを待つ時は何をされてもじっと耐えて待っていた。
犬と猫は習性が違う生き物ですが、外出から戻ってきたときに迎えてくれる姿は犬も猫も変わらないですからね。
人が大好きで、何をされてもやり返したりせず主人に対して何よりも敬意を持って接していた性格がこうして秋田犬の特徴を振り返ってみると見えてくる気がします。
今回は、ハチ公の銅像が秋田の大館市にある理由、ハチ公の生涯、秋田犬の概要を記載しました。
それぞれの見出しについてはもっと深く、様々な歴史が秘められています。
大館市がハチ公の故郷であることや、簡単ですが、秋田犬の習性について知ってもらえれば嬉しいです。